2015年07月22日

私たちはなぜ座り込むのか? 沖縄沖縄戦体験者の証言1


政府は沖縄県民の反対を無視して、名護市辺野古や東村高江で米軍基地の建設を強行しています。建設を止めようと、辺野古の米軍基地前と高江のゲート前で座り込む県民の隊列には、不自由な体を押して参加する「おじい」「おばあ」の姿が。
なぜ、座り込むのかー。

戦後70年、沖縄の梅雨明けは例年より一一日早かった。現地は連日、厳しい暑さに見舞われている。県内各地から猛暑の中をバスや自家用車で駆けつける人々。その中には多くの沖縄戦体験者がいる。「悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない」「戦争に繋がる人殺しのための基地は絶対に造らせない」という強い思いが、座り込みという非暴力直接行動へと駆り立てている。

沖縄戦とは何だったのか?
沖縄戦は一九四五年三月に始まった。米軍は五四万の兵力と艦隊一五〇〇隻で包囲。海が艦船で真っ黒に見えたと沖縄戦体験者は言う。一方、日本軍は一一万人、うち正規軍は八万五〇〇〇人で、残りは現地徴集の補助兵力だった。圧倒的な戦力差で戦う前から勝敗は決まっていたが、大本営は本土上陸を長引かせるため降伏を認めなかった。沖縄はいわば本土のための捨て石≠ノされたのだ。戦っても負けることを承知の無謀な戦争だった。
鉄の暴風≠ニ呼ばれた米軍の艦砲射撃。すさまじい地上戦が繰り広げられ、日本軍の命令による「集団自決(集団強制死)」など凄惨な事件がいくつも起こった。六月まで続いた無謀な沖縄戦で、県民の四人に一人にあたる一二万人以上が亡くなった。沖縄戦を体験した人の証言を聞こう。(=は沖縄戦当時の住所)
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今も思い出す赤ちゃんの目
伊佐真三郎さん(八五)=沖縄市
辺野古から北に車で約一時間、東村高江に着く。米軍北部訓練場の中に高江の集落をぐるりと取り囲むように、オスプレイ垂直離着陸機が使用できるヘリパッド六基の建設工事が進んでいる。住民は二〇〇七年から二四時間、一日も休むことなくゲート前で反対の座り込みを続ける。そのうちの一人、伊佐真三郎さんは一四歳の時に沖縄戦を体験した。

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国を守る為に海軍少年志願兵になろうと、友人と誓いの入れ墨を入れて約束しました。腕には「土」という文字が今もはっきり残っている。死ぬときは海じゃなく、土の上で死のう、みんな生きて帰ってこようと言う意味だったようだ。でも、志願兵の最終の健康検査で目が悪くて不合格になり、海軍に入ることはできませんでした。このとき軍医は検査表にトラコーマという字を書いたことを見ていた。海軍の審査員が全員見ている前で「このバカものー」とやせ細った伊佐さんは軍医に背負い投げで投げ飛ばされました。戦後、自分の目がどうなっているのか眼科医に行くと何の異常も無もありませんでした。あの時の軍医の診断は何だったんだろう。このバカものー、と叫んで投げ飛ばされたのも、真三郎さんを合格させない演技だったのかも知れない。もしかすると不合格になるように母が手を回していたのかな。兄は中国戦線で行方不明。次兄はサイパンで玉砕。家に残っている男は伊佐さんだけだったので、お母さんはなんとしても生き残って欲しいと思っていたのかも知れない。疎開船「対馬丸」で疎開させようと申し込んだのもお母さんでした。しかし、出発の前夜、「家族を守る為に僕は行かない。死ぬときは家族と一緒に」と出発直前に断ってしまいました。
沖縄戦が始まり、沖縄市(現)泡瀬にも激しい艦砲射撃が降り注ぎました。

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米軍が撮影した泡瀬の航空写真

戦争中、米軍が上空から撮影した泡瀬の写真があります。波止場近くに材木が並べられ、子どもたちが波止場からに飛び込んで遊んでいる姿が見えます。戦前、本島北部のやんばる(北部の森林地帯)から木材や薪、炭などの燃料を運び込むには海路を使ってました。泡瀬は那覇など南部に運ぶための集積港で周辺では一番の賑わいのある町でした。
港の後方には空襲や艦砲で焼け野原になった住宅地が写っています。3月の米軍が押し寄せる前に撮影されたようです。沖縄戦の前年1944年10月10日には県都の那覇市が米軍艦載機の空襲で壊滅しました。その時、数機の米軍機が泡瀬に飛来。港に停泊していた日本銀の機雷敷設艦が撃沈させられました。この事を木に隠れて見ていました。その時はまだ、米軍が上陸するとは思ってもいませんでした。
国民学校は授業はなく、塹壕堀やアメリカの戦車を落とすたこつぼの様な落とし穴を掘る作業をさせられていました。自分はお国のために戦って死ぬ事だけを考えていました。当時はそんな教育でしたから。
4月はじめ、泡瀬にも米軍が迫って来たので家族や親戚でヤンバルに逃げることになりました。しかし、泡瀬を出たあたりで、橋も壊され川を渡ることが出来ずヤンバルに逃げることを断念しました。そして、死ぬのなら家族一緒に先祖が眠る墓に隠れることになりました。沖縄の墓は大きく立派な物が多く、家族親戚が一緒に隠れるには絶好の場所でした。しかし、泡瀬は海岸線で墓がなく少し離れた高原(現沖縄市)、比屋根(現沖縄市)、などの墓に逃げ込みましだ。
激しい艦砲と米軍機からの機銃攻撃の中を逃げる途中、赤ちゃんを抱いた母親と出会いました。母親は足を大けがしていました。赤ちゃんを砲弾の届かない安全な道ばたに隠すと、自分は力尽きたのか川に飛び込んでしまった。置き去りになった赤ちゃんは、草の中で泣きもしないでじっとこちらを見つめていた。いま、思うと機銃か艦砲で足をけがした母親はもう逃げ切れない、ダメだと思ったのでしょう。道路の脇の草むらに置けば、米軍機のパイロットから赤ちゃんが見える、米軍でも赤ちゃん一人だけなら撃たないだろう、母親の子どもだけでも助けたいという思いだったんじゃないかな。もし母親が抱っこしていれば、米軍機からは赤ちゃんが見えず、母親と一緒に攻撃され赤ちゃんも助からないそう思って泣く泣く赤ちゃんを草むらに置いたんじゃないかな。
その赤ちゃんを草の中に置きざりにして逃げてしまいました。その時は申し訳ないとか、かわいそうとか言う感情は湧きませんでした。とにかく自分たちだけで逃げるのが精一杯でしたから。
しかし、戦後になって、どうして、赤ちゃんを助けてあげなかったのか?自分を責めて苦しんでいる。誰もが自分のことで精一杯だったと、言い聞かせている。しかし、今も、草の間から赤ちゃんがこちらを見つめている夢を見る。
戦争が終わって、海軍志願兵になった友達も、対馬丸に乗った近所の人も誰も戻らなかった。
長兄は中国戦線で戦死、2番目の兄はサイパンで斬り込み隊で戦死したことがわかった。男は自分一人になって母から大事にされたため姉からは妬たまれた。ある日海軍に行って戻ってこなかった友達の家の前を通った時、友人の父親が私を見るなり、玄関をバタンと閉めてしまいました。それ以来友達の家の前を通るのが怖くなりました。
「なぜ自分は生き残ってしまったのか」―。いまも自分を責めて眠れない夜がある。
ゲート前に座り込み来る若者に口癖のように言う言葉は「絶対に戦争をやってはいけない」目を細めて優しく静かに話す伊佐さんの記憶の奥にいつも、戦争の時の記憶が整理着かないまま刻み込まれている。

真三郎さんの両親のこと。
子どもの頃父と顔を合わすことが少なかった。父の記憶で鮮明に覚えていることがある。あれは1944年1010空襲の前日のことだ。夜に父が友人3人と花札を持って、暗号みたいななにやら秘密めいた会議をしていた。それをのぞき見していたら、突然、警察官を乗せた中型トラックが来て無理矢理、鳶外套を着た男に引っ張られていった。警察官は嘉手納署だったらしいとあとで隣近所の人が言っていた。その後2度と父は帰ってこなかった。戦後しばらくして先輩から聞いた話では戦前の治安維持法の「特高」による連行だったのではないかと言っていた。いまでも父の所在は解っていない。どうやら両親は反戦活動をしていたらしい。
息子の伊佐真次さんが高江の座り込み通行妨害で国に訴えられ、高等裁判所が那覇防衛局の訴えを認め仮処分の決定がされたとき、「殺されないなら良かった」と言った。特高に引っ張られて今も帰ってこない父のことを思い出したのかも知れない。

朝鮮半島から連れてこられた慰安婦たちのこと。
戦前の泡瀬の町の外れに日本軍が駐屯していた。駐屯地の近くには料亭が2,3件あり、日本軍の慰安所になっていた。伊佐真三郎さんの母の叔母もその料亭(慰安所)を経営していた。そこには朝鮮半島の女性たちが4,5人働いていた。
13歳だった伊佐さんは親戚の叔母の料亭に遊びによく行った。そこで三線をお姉さんから教えてもらっていた。色白でいつもおしろいの臭いがするとても優しいお姉さんだった。2階には毎日4,50人の兵隊がならんで順番を待っていた。あるとき叔母さんが、三線を教えているお姉さんに「早く2階に上がりなさい」と言った。お姉さんは今日は痛くて休みたいと言ったが聞き入れられず2階に姿を消した。着物の裾の奥から見えたあそこは真っ赤にはれていた。少年の真三郎さんには意味がわからなかった。ただかわいそうだと思っていた。
戦後、朝鮮半島から帰ってきた親戚の叔父さんに何をしていたのかと母が聞いた。叔父さんは警察官をしていて、若い娘を探して捕まえて日本に送った。娘の父親が助けようと抵抗すると銃を突きつけて脅して無理矢理、連行したと得意げに言っていた。母は真三郎さんに何も言わなかったが、「そうだったのか、三線を教えてくれたお姉さんはこうして連れてこられた慰安婦だったのか、もう2度と三線を弾かない」と持っていた三線を壊してしまった。
母は朝鮮の女性たちにいろいろと生活の相談にのっていたらしい。戦後まもなく米軍のジープに乗って、朝鮮から数人の女性が母を訪ねてきた。大変御世話になったと言ってお礼のお金を持ってきてくれた。それは今も大切に保管されている。昔の日本円と米軍軍票のB円。母は彼女らが「慰安婦」だったのかどうか言葉を濁していた。
真三郎さんは韓国に行きたいと思っている。どうしても、慰安婦にさせられた人たちに会って謝りたい。あのとき助けてあげられなかった事を謝りたい、申し訳なかった。国の戦争責任者は韓国に行って腹を切ってわびるべきだと。日頃穏やかな真三郎さんがこのときは厳しい目つきにに変わった。



伊佐真三郎さんが泡瀬から木材豊富な本島北部の東村高江に移り住み木工所をはじめたのはいまから二十数年前からだ。
これからは静かに緑豊かなヤンバルで暮らすことが出来る。木工の仕事も息子の真次さんに任せてゆっくり過ごせると思っていた。ところが8年前、北部訓練場の高江集落を取り囲むように米軍ヘリパッド(ヘリの離着陸帯)の計画が明らかになり、黙っては居られなくなったのだ。
座り込みテントに来る若い人たちに自分の体験を聞いて欲しいと時々テントで自分の体験を話す。しかし、辛い話はしんどいらしい。そんなときはいつも島酒の臭いがする。アルコールの力を借りなければ話が出来ない辛い体験だったのだ。
この闘いは絶対暴力を振るってはいけない。暴力は戦争に繋がるから非暴力で通すこと。機動隊にやられてもじっと我慢してね。と静かにいう伊佐信三郎さんの細めた目の奥が笑っていた。
戦後解ったことだが、真三郎さんの両親とも命がけの反戦活動をやっていたらしい。両親の平和を願う血は真三郎さんに受け継がれ、さらに息子の真次さんはいま、高江ヘリパット許さない住民の会でテントに座り込んでいるし、昨年9月にヘリパッド建設反対、北部訓練場の全面撤去を掲げて村会議員になった。平和を願う血は三世代に引き継がれている。
posted by M at 17:18| レポート